歌舞伎@GINZA~木挽町と新富町
銀座と歌舞伎、というとまず思い出すのが東銀座の歌舞伎座ですが、歌舞伎座以前から銀座地区と歌舞伎は長いご縁があるのです。
歌舞伎座のあるあたりは昔「木挽町」と呼ばれていました。十七世紀後半、この辺りには山村座、河原崎座、森田座という劇場(芝居小屋)が三軒(三座)ありました。
今でもそうですが、観劇の楽しみはお芝居だけではありません。ご飯を食べたり、買い物をしたり、その劇場のある「街」も一緒に楽しんでいるのですが、江戸時代の人たちも同じでした。劇場を中心に様々なお店が集まり、劇場街(芝居町)を形作っていました。
その後、いろいろあって、木挽町の劇場は森田座のみとなりますが、木挽町は劇場街としてにぎわいを見せていました。
ところが、江戸時代も終わりに近い十九世紀半ば、江戸幕府の命令で、浅草に作られた新しい町(猿若町)に、劇場が強制移転させられます。森田座ももちろん移転。二百年間の長きにわたった木挽町の賑わいも火が消えてしまいます。
猿若町で歌舞伎は大いににぎわいましたが、やがて明治維新を迎え、明治五年守田座(森田座を改称)が猿若町から新富町に移転します。守田座はさらに、地名を取って新富座と改称しました。
新富町は地名にも残っていますし、地下鉄の駅名にもなっていますね。銀座のお隣の町です。
そして、明治二十二年には歌舞伎座が現在地(木挽町)に開場しましたから、猿若町時代と明治の始まりの約三十年間を除き、木挽町と新富町、つまり銀座の近くでは三百八十年もの間歌舞伎をはじめとするエンタメの興行が行われているのです。銀座はエンターテインメントに縁の深い土地なのです
ところで、新富座はその後どうなったかといいますと、関東大震災で被災し、その後再建されずに終わってしまいました。
いまでは新富町に劇場があった昔をしのび、中央区の子供たちによる「新富座こども歌舞伎」が行われています。
窪寺祐司(松竹株式会社 演劇営業部演劇ライツ室 室長)