舞台演劇と、イラストと。
私は俳優・イラストレーターのお仕事をしている45歳。ヒゲとメガネの一児の父。柔らかなファンタジー作品が好きである。
であるので、この国の一大ファンタジーと云っていい「仮面ライダー」や「スーパー戦隊」の劇中画やアパレルデザインに関わらせていただいたことは大変光栄なことであった。
ここでは、二足のワラジと度々云われる、自分の中のエンタテインメント(演劇)と、それからアート(イラスト)の共存関係について書かせていただく。
私の(これから変わるかもしれないけど)、今現在の思考はこうである。
アートとエンタテインメント、これら二つは「つくりもの」という点では共通していても、自分が満足していればいい。という点と、お客さまが満足していればいい。という点において、私は意識して真反対に位置づけようとしている。
このルールがあると、例えば販売物の制作時で迷ったとき、アート過ぎるから色を変えよう!と踏ん切りがついたりする。
これは、自分の経験則で編み出せたものではなく、ちょうど10年前、展示会のプロデューサーにいただいた言葉からはじまったものだ。
その時、自分のグッズの売れ行きが思わしくなく会場費の算出に頭を抱えていた私に、「絵を描きたいだけだったら、ひとり山奥で描いてそれで満足できるはず。しかし君が多くの人に観てもらいたいという取っ掛かりから絵を描くのであれば、制作初期からの視点が違う。商人(あきんど)たれ。」と。
こと、お客さまを相手に言い換えれば、「売れればいい?」、「売れなくたっていい?」。今作ろうとしているこの制作物は、どっちの視点でいく?という話である。そんなこと、テレビに出る人だけが考えることだと思っていた。
そのような才とは無縁の芸術家に、画商というプロデューサーがついて、あの芸術家は世に出た。そういう歴史は知っていたが、「プロデューサーは自分」である個人事業主としてイラストを「仕事」にする以上、取っ掛かりの基本のキの字だと教わったのだ。
改めて、私は今、イラスト業と舞台演劇とで生計を立てている。
舞台という団体戦の「興行」に関わって、個人戦でイラストを描く。
団体と個人。であるが、私の中ではこの二つは、乖離しておらず同じ方向を向いているものだ。
「どなたかにお見せするもの」を作りたいだけだからである。
当然、二つにかけられる時間は半分こになる。なので、それぞれが中途半端だ。私はそれを重々承知している。
それでも恥をかなぐり捨てて舞台とアートにしがみつく「生への執着」は、やはりファンタジーが大好きだからだ。
社会から飛び出て虚構を追い求めた分、帰ってくるためには同じ力で現実を手繰り寄せねばならない。どっぷり「あっち」に浸かってしまったら、ファンタジーの良さも薄れるってものである。
私は演劇でも、絵画作成にでも、「ロス」がくる。好きな期間が終わると放心状態、何も手をつけられない廃人になる。
昔から演劇界でも、千秋楽の夜に皆口々に「リハビリ」だとか、「明日から社会復帰がんばらなきゃ」と云っていたものだ。
今は「ロス」というしっくりくる表現があるが、いつまでもロスっている場合じゃない、ファンタジーに行きたいのであれば、現実で生きなければならないのだ。この原理こそ真逆であるので、演劇とイラストを分けて考えている「場合じゃない」というのがほんとのところなのだと思っている。
あと、しっかりしないと母ちゃんに怒られるのだ。そんな母ちゃんの本が出るので、イラストも描かせてもらったその画像を貼っておく。(母ちゃんの機嫌よくなれ機嫌よくなれ…)
しゃしゃり出ついでに、私のアートへの向き合い方を、さいごに少々書かせていただきたい。
米米CLUBの芸術的ステージ演出(ライブビデオ『英雄伝説』をご覧あれ!)を知った高校一年時から、あわてて美術書や美術館に身を投じたが、このままでは教養としても実践においても美大を目指す人々の質と量には敵わないと気が付いて以来、好きなものの前だけで足を止めることにした。
美術界への「幅広い造詣」には恋焦がれたが、私は、すぐに絵に直結する「衝動」を探すことに集中した。でなければ、星の数ほどいるプロの競合相手とポジション獲りなどできるわけがない。
だから全ての展示品の前で、とりあえず長いこと、難しい顔をしてみる演出もやめることにした。ちょっぴり「ひっかからなかった」美術館では15分と経たずに出る(でも、脳みそのどこかにはちゃんと入力できたハズ!と満足するのもポイントである)。
「ひっかからなかった」のはきっと、作品に失礼ではないはずだ。
それは、アート・芸術は、制作者の「熱情」であって「もてなし」ではないと考えているからである。アートや芸術なら、礼儀を欠いていようがさもありなんである。
一方、エンタテインメント・娯楽は、間口は広く、迎え入れるものであってほしいと祈っている。礼節なき娯楽には腹を立てたっていい。 しかしこの思考では不都合が生まれることもある。思考にルールを持たせると、ハミ出ているものを受け入れがたい頑固中年が出来上がる。 コンセプト自体が芸術性と娯楽性が渾然一体であるもの、例えばフェス。
アートフェスに於いて「それは個展でやってくれ」とうんざりしたり、音楽フェスに「それはワンマンライブでやってくれ」としょんぼりすることが稀にあるのだ。
けれど、その際には、新たな衝動との出会いをお手軽に、一挙に求めようとしたこっちの責任。と思えば、得した気分だけが残るのでよいと分かった。
結局のところ、思考自体にルールを持とうとせずに、ガイドライン程度に収めておくのも大事な、現実的な取り組みなのだ。
そのようにして明日も私は「センス」や「才能」という乗り越えられない壁がじわじわと押し寄せてくるのを、見て見ぬふりをしながら、全身をめぐる動脈と静脈よろしく、俳優業とイラスト業が非常に仲良く諾々と虚構を求めて行くのである。
唐橋 充(俳優・イラストレーター)