最高のエンターテイメントに生涯を捧げた男 菊田一夫の挑戦③「記念碑」

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昭和41年、新装開場した帝国劇場で菊田一夫の長い間の夢だった「風と共に去りぬ」を世界で初めて劇化。第一部、第二部、総集編を合わせて10ヶ月のロングラン。その成功に著作権者のケイ・ブラウン女史は、菊田一夫が念願とする「風と共に去りぬ」のミュージカル舞台化を許諾。
昭和45年1月~3月。帝劇にてミュージカル「スカーレット」として上演。「ノー・ストリングス」でトニー賞を受賞した振付・演出のジョー・レイトン。作曲のハロルド・ローム。装置、照明、音響、衣裳、編曲、指導者などスタッフは全員、ニューヨークから来日。東宝演劇部の演出部のスタッフ達は稽古場でのミュージカルの進行過程をしっかり学んだ。配役はスカーレットは神宮寺さくら、レットバトラー北大路欣也、アシュレ田宮二郎、メラニー倍賞千恵子、スエレン黒柳徹子など。
英語版は昭和47年5月、ロンドン、ドルーリー・レーン劇場で一年間のロングランを記録した。
昭和38年から「マイ・フェア・レディ」「ノー・ストリングス」「努力しないで出世する方法」「アニーよ銃をとれ」「サウンド・オブ・ミュージック」「王様と私」「キス・ミー・ケイト」「南太平洋」「屋根の上のヴァイオリン弾き」「ラ・マンチャの男」など数多くのブロードウェイ・ミュージカルを翻訳上演。
昭和48年3月、東宝株式会社は第27回、トニー賞国際特別賞を受賞。日本でアメリカ演劇(ミュージカル)を上演して、その普及に貢献した功績が認められたのである。
3月25日、ブロードウェイ・インペリアル・シアターでのトニー賞授賞式。病床の菊田一夫にかわって当時の雨宮重役が出席、女優セレステ・ホルムから銀のカップを受けとった。
その時の手記に
「菊田先生を出したかった。(略)その華やかな式典こそ十年前のマイ・フェア・レディ以来、菊田先生を中心に続けてきた東宝のスタッフと俳優たちのミュージカル上演運動の努力が花ひらいた、ひとときであり、ほかの誰よりも、菊田一夫が立つにふさわしい晴れの舞台であったから・・・。」
雨宮重役は帰国早々、慶応病院へ。病床の菊田一夫に報告。ベットの上に正座して、やせた両手でトニー賞の銀のカップをささえ、しばし無言で眺めていたが・・・“よかったね”と落涙された。
その四日後、劇作家であり、演出家であり、プロデューサーであり、東宝の専務取締役であった菊田一夫は65歳の生涯をとじた。
昭和50年、菊田一夫の功績を記念し、演劇界発展の為に東宝は、菊田一夫演劇賞を制定。現在は映画演劇文化協会が主催。
毎年、舞台で優れた業績を示した芸術家を選考、表彰している。


宮崎紀夫(東宝演劇部プロデューサー)