最高のエンターテイメントに生涯を捧げた男 菊田一夫の挑戦②「東宝ミュージカル」

最高のエンターテイメントに生涯を捧げた男 菊田一夫の挑戦②「東宝ミュージカル」のイメージ画像
1963年マイ・フェア・レディ 日本初演時の記念写真

昭和31年2月、第一回東宝ミュージカルは菊田一夫脚本・演出「恋すれど恋すれど物語」と飯沢匡脚本・演出「泣きべそ天女」の二本立で上演。エノケン、ロッパ、越路吹雪、宮城まり子など豪華配役陣で大盛況だった。
昭和32年、小林一三は「現代劇」を熱望する菊田一夫の為に、ヒビヤ芸術座を創設。杮落しは4月25日、山崎豊子原作・菊田一夫脚本・演出、東宝現代劇「暖簾(のれん)」。主演は森繁久彌で大好評。だが杮落しを見ることはなく小林一三は八十四歳の生涯をとじた。菊田一夫は
「お客様の心の糧になるような最高のエンターテイメントを・・・それには第一に脚本、第二に脚本、第三に脚本だよ」と小林一三のメッセージを胸に“がめつい奴” “放浪記” “悲しき玩具” “夜汽車の人”など数々の名作を生み出し、また宝塚の生徒さんを芸術座に出演させて多くの女優を育てた。
昭和36年、丸の内ピカデリーで映画「ウェスト・サイド物語」が公開、大ヒット。ウェスト・サイドを見ずしてミュージカルを語るなかれと当時、ミュージカル論議がにぎわい、東宝のミュージカルは、本場のミュージカルとは、ほど遠いなどと言われた。だが菊田一夫は、日本のミュージカルの為に真剣に立ち向った。超多忙な一年の間に四回も渡米。ブロードウェイ・ミュージカルの数々を観劇した中で、ある作品に感激。このミュージカルなら日本人に肌合いがあう。このミュージカルをすべて日本人の手で上演する価値があると決断。
昭和38年9月、東京宝塚劇場にて日本初のブロードウェイ・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」を上演。
江利チエミ(イライザ)、高島忠夫(ヒギンズ教授)ら出演者総勢百一名がそれぞれ好演。
「日本のミュージカルの夜明けとなる公演だ」など劇評は各紙、絶賛。
昭和38年10月、日生劇場が完成。ドイツオペラで杮落し、一年後の昭和39年11月、アメリカ人によるブロードウェイ版の「ウェスト・サイド物語」が来日公演。
昭和40年5月、東京宝塚劇場にて、東宝ミュージカル国際公演「ハロー・ドリー」を上演。アメリカ国務省派遣文化使節団一行が来日。主演のメリー・マーチンが宝塚劇場の舞台に立った。「日比谷にブロードウェイがやって来た。」ミュージカルファンには、たまらない喜びだった。
だがまだ、ごく限られた人だけのものだった。


宮崎紀夫(東宝演劇部プロデューサー)



マイ・フェア・レディ 9月16-30日 東急シアターオーブにて上演