最高のエンターテイメントに生涯を捧げた男 菊田一夫の挑戦①「日比谷との出会い」
菊田一夫は関西で年季奉公していた少年時代、詩人を志していた。大正14年に上京してサトウハチローの門下生となる。
昭和5年、浅草玉木座での処女作「阿呆疑士迷々伝」の芝居が大評判。以後、劇作家として活躍。榎本健一(エノケン)、古川緑波(ロッパ)らの為に数多くの爆笑喜劇を書いた。
昭和11年、東宝に所属した古川緑波一座に招かれて座付作者となり、浅草から日比谷に本拠地が移った。緑波の浅草から日比谷への転身は喜劇の質を高めたと言われているが、菊田一夫の戯曲の存在が大きかった。緑波と渡辺篤がペテン師役を演じた「花咲く港」は代表作のひとつ。
戦後まもなくNHKラジオの連続放送劇、菊田一夫脚本、古関裕而音楽、「鐘の鳴る丘」と「君の名は」、この二つは空前の人気番組となった。
昭和20年、終戦直後、日比谷界隈での演劇興行は「東京宝塚劇場」「有楽座」「帝劇」「日劇」で、戦後の混乱の中「いよいよ劇場再開だ」と関係者スタッフ一同いきに燃えた。だが東京宝塚劇場だけはGHQに接収、進駐軍専用のアーニー・パイル劇場となる。
それから十年の歳月が過ぎた昭和30年1月、東京宝塚劇場がやっと返還された。それを機に東宝㈱の創設者の小林一三は、菊田一夫を東宝㈱の演劇担当重役として迎えた。
重役となった最初の台本に「東宝喜劇」と付けたが小林一三は「喜劇」を赤鉛筆で消して「ミュージカル」と訂正。ここに「東宝ミュージカル」の名称が誕生する。
宮崎紀夫(東宝演劇部プロデューサー)