銀座のピエロ―45年前の記憶

2018/08/24

銀座のピエロ―45年前の記憶のイメージ画像
化粧品キャンペーン ソニースクウェアにて

1960年から70年。日本の政治状況は騒然としておりました。「安保闘争」「成田闘争」「ベトナム反戦」、学生を中心に闘争が繰り広げられていた時代です。表現世界の多くの人間が関係しました。私は役者を志すも、希望劇団が解散し、行く当てなく仲間と小グループを立ち上げその道にしがみついておりました。


そんな時、パントマイムに出会うのです。グループ、組織がなくとも一人で演じられる世界。見よう見まねでマイムテクニックを手に入れてゆきます。そのうち人形ぶりというテクニックを生かした仕事があると知り、銀座5番街のシャンソン喫茶「サイセリア」で看板代わりに立たせてもらいます。人間か人形かと通行人が立ち止まり、時には人の輪ができてゆきます。銀座のピエロと呼ばれ名物になっていったのです。


ところが3年ほどで店は移転、紹介で銀座泰明小学校前に新装開店したシャンソン喫茶「ボヌール」に雇われます。学校前の通りは、銀座と日比谷を結ぶ裏道です。帝国ホテルを抜けると、劇場、映画館の集まる華やかな街に行きつく、虚構に出会うための裏の通路でした。土日は、遠方から日比谷の劇場に向かう人で、白塗りのピエロの周りに2重3重の人垣が生まれます。身動きせず、瞬きをしないピエロに見入り、人間か人形かとのぞき込むお客さん。カタリと動く人形。驚き叫ぶお客さん。周りがどっと笑います。そこから短い即興マイムで見物人を店に誘います。
劇場街から離れた小さな空間。私は、ここからいつか日比谷の劇場に立つことを夢見て雨の日も、雪の日も立っていました。


そんなある日、小雨のなか若者が私の前に立ち「これあげるよ」と貝殻のネックレスを差し出します。「今、彼女と別れてきました。だからこれいらなくなったのです。」若者は私の手にそれを載せ、恥ずかしそうに笑い消えてゆきました。


銀座の街角で起こる小さなドラマから私のマイム作品が生まれもしました。45年経っても変わらぬ心の風景がこの町で生まれ、新たなドラマが育つ事を願っております。


あらい汎(劇団「汎マイム工房」主宰・役者・演出家)