博品館劇場~その名には銀座の流行の歴史
博品館の名前は明治から昭和初めまで「帝国博品館勧工場」という銀座の名物として親まれきました。 明治32年に銀座で7番目の勧工場として銀座中央通りの8丁目に開店し、他の勧工場がみな二階建てであったのに対し、博品館は煉瓦造りの三階建ての建物で屋上には時計塔が聳えるルネサンス様式でした。直径120cmの大時計灯入り文字盤とオルゴールの美しい音色は、当時の銀座人をおおいに楽しませていました。昇り降りは普通の階段ではなく螺旋状の緩い勾配の通路をめぐり歩く斬新な構造で、この方式が評判になりたちまち銀座で一番の売上になりました。陳列店数は全部で70店にも及び、洋品店や呉服店、化粧品・小間物店、漆器・寄木細工店、玩具店などが並んでいました。
銀座の勧工場は明治35年に最盛期を迎えましたが、翌年から下火になっていきました。結果的に最後の勧工場となった博品館は大正時代に入っても営業を続け、大正9年に一時閉店したものも、翌10年には三階建てから四階建てのビルに改築し、銀座の商店で初めてエレベータを設置して評判になりました。
また、その時に使われた新造語の「百貨店」も日本で初めてということで話題を呼びました。しかし、この建物は関東大震災の時に焼失してしまい、震災後、建物を再建し営業を再開したものの昭和6年に百貨店営業を断念し、いったん店を閉鎖しました。その後、賃貸ビルとして復興、幾多の変遷を経て、昭和53年10月、 創業80周年を記念して亀甲型のフロア構成と螺旋階段、中央を貫く透明のエレベータのある10階建てのビルを新築しました。1階から4階までを物販部門、5階から7階をレストラン部門、8階から10 階を劇場部門の「博品館劇場」としました。その後昭和57年9月に物販部門を玩具専門店の「博品館のTOY PARK」としてオープンし今日に至っております。
伊藤義文(株式会社博品館代表取締役会長)